Everyday,バーチャルYouTuber!!

バーチャルYouTuberの沼にどっぷり浸かりきってる大学生。いずれバーチャルYouTuberになりたいという野望を秘めている。

バーチャルYouTuberの皆様、絶望をありがとう。

あいにくの曇り空かと思えば桜島の噴煙だった、などということはこちらではよくある話。

 

ワタリカケルです。

 

バーチャルYouTuberに関する記事を書き続けて早20記事。何事も三日坊主の私がよくここまで続けられたものだ。

 

本日はバーチャルYouTuberのニュースや紹介ではなくバーチャルYouTuberそのものについて私が思ったことを赤裸々に綴りたいと思う。

 

赤裸々に綴るってなんか響きがいいよね。書いてみたかっただけ。

 

そんな話はどうでもいいとして本題に移る。

 

バーチャルYouTuberがくれたあまりにも「ポジショブ」な「絶望」

 

恥ずかしながら、わたしにもバーチャルYouTuberを目指していた時期があった。

 

とはいってもそれをまだ諦めたわけではなく、バーチャルYouTuberにはなれずともいずれ仮想空間で活動できるアバターを手に入れたいとは思っている。

 

技術も道具も、それを揃える先立つものもない私だが、一応

「もし自分がバーチャルYouTuberになるなら」

という拡張現実へのアバターを設計図段階で持っている。

 

いや、持っていたという方が正しいか。

 

今はその設計図は捨てた。

 

なぜなら、

「こんなものはなりきりの延長線上にすぎない」

と私自身が思ったからだ。

 

その設計図は本来の私の性格とはかけ離れていた。

本来の私は喋りが下手なのにその設計図はやたら饒舌だし、

本来の私は大していい声でもないのにその設計図は整った顔立ちだし、

本来の私は小心者のくせにその設計図はすぐイキるという性格だった。

 

「そういったしがらみから離れられるのもバーチャルの醍醐味なのでは?」

と考える方もいるだろう。

 

しかし、その「しがらみ」から解放されたところで待っているのは際限のない現実と仮想の乖離である。

動画を撮影しているあいだ、自分が自分ではなくなってしまう。Twitterで多くの反応が返ってくるアカウントの主は、自分だけども本来の自分ではない、そんな誰かである。

 

それをどう捉えるかは人それぞれだろうが、私にはとても耐えられそうになかった。

 

それに気づいたとき、私は一つの事実に気がついた。

 

「あ、私はバーチャルの力を借りて自分を捨てたかったんだ」

ということに。

 

そしてそれは決して叶わないまやかしに過ぎなかったということに

バーチャルだろうがなんだろうが、人間はどこまでいっても「自分」からは逃げられないのだ。

 

バーチャルYouTuberが教えてくれた「自分」は「自分」だということ

いくら現実と違う名前を作っても、現実と違う容姿になっても、結局中身は自分のままである。

その事実に気づいたとき、私はほんの少しの絶望感に襲われた。

 

これはひょっとすると軽い自殺願望のようなものだったのかもしれない。

現世での嫌な部分全てを捨て去り、仮想空間に新しい、理想の自分を創造したいという。

 

しかし、前述した通りそれはまやかしであり、そんな夢は叶いはしない。仮に叶ったとしてもごく短期的なもので、やがて乖離しきった現実からとんでもない「虚無感」というツケが回ってくる。

 

バーチャルYouTuberを好きになり、バーチャルYouTuberに憧れ、バーチャルYouTuberになりたいと思ったからこそ、私は現世の自分の破壊という自らの奥底に眠る欲望に気がついたのかもしれない。

 

しかし、それもまた自分なのである。

ひょっとすると、今活動しているバーチャルYouTuberの中に、自らを偽って演じている方がいらっしゃるかもしれない。

そして、それがつらくない、むしろ楽しいという人もいるだろう。

 

だが、少しでも現実との乖離を感じるようであれば、一度自らを見直してみるのも悪くないかもしれない。

私は幸い、乖離を経験せずに済んだ。これに気づかせてくれたバーチャルYouTuberの皆様に、心からお礼の言葉を申し上げたい。

 

バーチャルYouTuberの皆さま、絶望をありがとう。

自らの破滅願望に気づき、それが挫けたおかげで、私は今一度自分と向き合おうと思えました。

 

少し重い話になりましたが、本日はここまで。

ワタリカケルでした。

 

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例え仮想空間の中であろうと、私は、私だ。